和田峠へのロマン街道として再生したい
ここに事業として再生を宣言します
和田峠は甲州街道の裏街道として江戸への甲州の献上品の街道であったり、
文明開化では上野原の市から横浜港へのシルクロード街道として繁栄しました。
遠く振り返れば日本武尊の東征のおり、軍が三国峠から和田峠へと古代の足跡を残してくれました。
戦国時代では最強の武田軍団の本拠地として、ここから武蔵や相模の国々を領地として支配していました。
江戸時代では多くの文人が江戸からこの峠を通り過ぎていました。佐野川の倉子峠では俳人各務支孝の
句碑にあるように、庶民の俳句の隆盛を見せ地域の文化を育てていました。
やがて明治になり、中央線の開通や甲州街道の整備でこの峠の利用もうすれてしまいました。
昭和の時代に入り、この和田峠も細々として相模から武蔵の道として残されてきましたが、
昭和53年には神奈川県が和田林道として東京都の林道と合わせ道を整備致しました。
峠には神奈川県知事の津田文吾の開通碑もあります。
平成の時代に入り、特に平成21年の高尾山のミシュラン評価で古里の生成への大きな手がかりとなりました。
この和田峠に改めて光りを当てて、再生したいとここに宣言したいと思います。 |